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プロフィール
 
 東村山市は、東京都の北西部、荒川から多摩川にかけて広がる洪積層、武蔵野台地のほぼ中心部にあります。
北西部分にはこの武蔵野台地にポッカリと島のように浮かんだ狭山丘陵を含んでおり、荒川方向(北東)にゆるやかに下がっています。
行政区画でいうと、北は狭山丘陵・柳瀬川によって埼玉県所沢市に、東から南東は清瀬市、東久留米市、南は小平市そして西は東大和市に接しています。東西5.83km、南北3.09km、総面積17.62平方キロメートル、市域には私鉄西武各線とJR武蔵野線が縦横に走り、中央には新青梅街道が横断する緑豊かな文化都市です。

 市内には武蔵野の面影を残す雑木林や田園風景があり、散策する市民の心を和ませてくれます。特に新東京百景の一つとなっている北山公園は、春の紅紫色のれんげじゅうたんにはじまり、カキツバタ・花菖蒲・ハスが6月から7月に見事な花を咲かせ、八国山を背に、ほとばしるような緑が目を引きます。

 東村山市にはじめて人が足を踏み入れたのは今から1万数千年前の旧石器時代のことです。縄文時代には水の得られる狭山丘陵地帯のふもと、前川・後川(北川)そして柳瀬川に沿って多くの集落がひらかれていたようです。当時の生活ぶりは遺跡として多く残されており、発掘調査の結呆、住居址や多くの石器・土器などが出土しています(下宅部遺跡)。

  やがて奈良、平安時代になると後川・柳瀬川の低湿地に沿って、多くの集落ができました。住民はわずかな水田と小規模な畑によって、現在の多摩湖・廻田・諏訪・野口・久米川・秋津町などで生活を営んでいたようです。4世紀のころから多摩地域にも大和文化の影響があらわれ、7世紀半ばから8世紀(大化〜大宝年間)になると武蔵国府中(府中市)に国府がおかれ、東村山市域を南北に貫いて上野国と武蔵国を結ぶ官道が通じていました。

 鎌倉幕府が成立すると「いざ鎌倉」への道として各地の道路が整備され、東村山地域を貫く道は鎌倉街道の中でも「上の道」として、久米川は宿駅として軍事的・経済的にも重視されたようです。

  1590年、徳川家康の江戸入りにともない、それまでの柳瀬川‐前川‐後川ぞいの古村は次々と南の原野を拓き発展していきました。承応3年(1654)には玉川上水が、承応4年には野火止用水が開さくされ、享保年間以降一面の原野であった武蔵野の新田開発がすすみました。東村山地域は近世を通じ山口領に属し、幕府直轄の天領や地頭領、寺領の分割支配となっていました。19世紀初頭、文化・文政のころは、多摩郡に属した南秋津村114戸、久米川村186戸、野口村136戸、回田村120戸、宅部村42戸、そして入間郡に属した大岱村は70戸で、江戸近郊の農村として幕末を迎えます。

  明治維新直後の地方支配制度は流動し東村山市域も韮山県、品川県など転々として明治5年(1872)南秋津、久米川、野口、回田村は神奈川県に、そして埼玉県に属していた大岱村も明治13年には神奈川県に移りました。同17年に野口、回田、久米川、大岱の4ケ村組合がつくられ連合戸長役場を正福寺におき、さらに同22年5月の市町村制施行によって南秋津を加え、ようやく東村山村が誕生しました。これが現在の東村山市の母体になってます。

 その後、昭和17年(1942)に人口1万852人で町制を施行。昭和39年(1964)4月には人口6万6,012人になり、東京都で13番目の市として第一歩を踏み出したのでした。現在、私たちの東村山市は近郊住宅都市として、「自然と調和し健康でふれあいのあるまち」をめざし努力を続けています。
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